「お義母さん、そこまでしなくても大丈夫です」
真由は何度もそう言いかけて、毎回飲み込んでいた。四十一歳。夫と小学生の息子の三人暮らしだったが、義父が亡くなってから義母との同居が始まった。
義母は悪びれもなく台所に立った。
冷蔵庫の中を勝手に並べ替える。
味噌汁の味を見ては「薄いわね」と言う。
息子の弁当を見ては「こんなのじゃ足りない」と首を振る。
夫はいつも同じことを言った。
「まあまあ、悪気はないんだから」
「母さんに任せとけばいいじゃん」
真由の息子には卵アレルギーがあった。軽くはない。医師にも止められていた。だが義母はそのたび鼻で笑った。
「今の子は甘やかしすぎよ」
「少しずつ慣らせば平気になるの」
真由はそのたびに、きちんと否定しきれなかった。
波風を立てたくなかった。
夫の前で嫁が神経質だと思われたくなかった。
その遠慮が、いちばん危なかった。
「気を使いすぎる人間は、境界線まで相手に譲っちまう。」

その日、真由は洗濯物を取り込んでから台所へ戻った。
「お義母さん、何を――」
言葉が止まった。
キッチンには甘い匂いがしていた。義母はフライパンの前に立ち、卵を使った生地を焼いていた。夫は横で麦茶を飲みながら見ていた。息子は椅子に座って、皿を前にしていた。
「これくらいなら大丈夫よ」
「母さんが言うなら平気だろ」
夫がそう言った次の瞬間、真由の背中が冷えた。
「食べちゃだめ!」
駆け寄った時には遅かった。息子はもう一口を飲み込んでいた。みるみる顔色が変わり、咳き込み、喉を押さえる。
「何やってるの!」
真由は息子を抱き上げた。義母は呆れた顔で言う。
「大げさねえ」
だが息子の呼吸は明らかにおかしかった。夫の顔からも血の気が引いた。
真由は救急に電話をしながら、台所に立つ二人を見た。
勝手に境界を越えた義母。
それを止めなかった夫。
そして、止められなかった自分。
あのキッチンで壊れたのは、空気だけじゃなかった。
「“これくらい”で踏み込む奴は、だいたい人の一線を知らない。」

病院の待合で、真由はしばらく声が出なかった。
「私が、最初に止めるべきだった……」
義母の無神経さは前からあった。
夫の鈍さも、前から知っていた。
それでも真由は、波風を立てない方を選び続けた。
息子が無事だったからよかった、では済まなかった。
一度見てしまったからだ。
自分の子どもの安全より、義母の機嫌を優先する家の形を。
夫が「悪かった」と言っても、真由の中ではもう何かが戻らなかった。
「遠慮は、ときどき守る順番を狂わせる。」

やるべきだったのは、うまくやることじゃない。
卵アレルギーの時点で台所の主導権を渡さず、夫にも最初から“子どもの安全だけは譲らない”と線を引くことだったってことさ。
家庭ってのはな、我慢で回すもんじゃない。
守る相手がいるなら、嫌われる覚悟より先に、止める覚悟を持たなきゃだめなんだ。
※この記事は、社会で起こりうる問題への注意喚起を目的として構成した創作です。特定の人物・団体・出来事を示すものではありません。

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