「3万円くらい、気づかないでしょ」
奈緒は、そう自分に言い聞かせていた。三十九歳。専業主婦。夫は帰宅が遅く、財布をダイニングに置いたまま風呂へ行く癖があった。
最初は一万円だった。次は二万円。やがて三万円が“いつもの額”になった。
「生活費が足りないんだから仕方ない」
「今月だけ」
「来月戻せばいい」
人間は、一度バレなかったことを、すぐ必要経費みたいな顔で扱い始める。
食費の穴埋めのはずだった金は、美容院、通販、ランチ代にも消えた。どれも一つなら小さい。だが、小さい出費ほど数が増える。そういうものは、家計簿より先に感覚を壊す。
ところがある日、夫が現金をあまり入れなくなった。そこで奈緒は困った。困った時点でやめればよかったのに、彼女は別の穴を掘った。
「少し借りるだけ」
スマホで消費者金融に申し込んだ夜、奈緒はまだ、自分が家を食い始めたとは思っていなかった。
「小銭のつもりで抜いたもんが、あとで喉元まで積み上がる。」

最初の五万円は、驚くほどあっさり借りられた
「こんな簡単なの?」
奈緒は拍子抜けした。夫に頭を下げなくていい。説明もしなくていい。そうなると次は早い。返済日に足りなければ別の会社。今月を埋めるために、来月の首を締める。そんな借り方でも、その場は静かに回る。
二社、三社、四社。七社目に手を出した頃には、スマホの通知が全部請求に見えた。
決定的だったのは、夫が引き出しの奥から明細を見つけた夜だった。
「これ、何?」
テーブルに並んだ封筒を見て、奈緒の喉が詰まった。
「ちょっと借りただけで……」
「七社で、ちょっとか」
夫は最後の明細を見て黙った。
「残高、三百十二万?」
怒鳴り声はなかった。その代わり、声が低かった。低い声ってやつは、もう戻る気のない人間が出す。
「財布の金も、お前か」
奈緒は何も言えなかった。言い訳は残っていたが、三百十二万円より軽かった。
「隠しごとってやつは、最後は金額のほうから名乗りを上げる。」

「こんなことになると思わなかった」
奈緒はそう言った。だが、自分で聞いても薄かった。
思わなかったんじゃない。見たくなかっただけだ。財布から抜いた金も、借りた金も、返せない残高も、全部“あとで何とかなる”に押し込めてきただけだった。
夫は寝室のドアを閉めたまま出てこなかった。リビングには、明細書と、抜き取られ慣れた財布と、奈緒だけが残った。
三万円は小さかった。だから舐めた。舐めたまま積み上げた結果、家の中には三百十二万円分の沈黙ができた。
「私、何やってたんだろ……」
答えは簡単だった。毎月、自分の暮らしを少しずつ抜いていたのだ。
「ごまかしは、積もると暮らしを食う。」

止まるべきだったのは、最初の一万円を抜いた時だ。
足りないなら、隠して抜くんじゃなく、家計を開いて夫と話すしかなかった。
借りる前に削る、黙る前に相談する、それだけさ。
暮らしってやつはな、大きな裏切りより、小さなごまかしの積み重ねで先に死ぬんだ。
※この記事は、社会で起こりうる問題への注意喚起を目的として構成した創作です。特定の人物・団体・出来事を示すものではありません。

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