「本当に、今日だけだから」
理沙はそう言っていた。三十六歳、既婚。夫と娘の三人暮らし。相手は同じ職場の男だった。最初は仕事帰りに食事をしただけ。家庭の愚痴を聞いてくれて、夫より少しだけ反応が早くて、少しだけ優しかった。
「家のこと、ちゃんとやってるならいいじゃん」
「少しくらい息抜きしなよ」
そう言われると、自分が被害者みたいな気分になれた。
一度だけ。
それで終わるつもりだった。
だが“一度だけ”で済むなら、人はわざわざ言い訳なんか用意しない。
二回目は車の中だった。
三回目は昼休み。
四回目には、理沙は夫に「残業」と言いながら男に会っていた。
「バレなきゃ大丈夫」
その言葉を口にし始めた時点で、たいていもう大丈夫じゃない。
「一度だけって言葉はな、だいたい二度目の入口なんだよ。」

決定的だったのは、雨の日の夜だった。
男と別れたあと、理沙は慌てて家に戻った。夫はまだ帰っていない。娘は実家に預けてある。急いで服を脱ぎ、洗濯機へ放り込む。何も残していない、そう思った。
翌朝、夫がリビングで言った。
「これ、何?」
テーブルの下に落ちていたのは、見覚えのない男物のライターだった。黒くて安っぽい、どこにでもありそうな物。だが理沙には、それが家の中にあること自体が異物だった。
「知らない」
「俺のじゃないけど」
夫はそう言って、ライターを指先で転がした。怒鳴りもしない。その静けさがいちばんまずかった。
理沙は喉が詰まった。
雨の夜、濡れたバッグから何かが落ちたのだと、その瞬間にわかった。
「誰が来た?」
その問いに、理沙の言葉はどれも軽すぎた。
知らない、拾った、前からあった。
どれも、その黒いライターより説得力がなかった。
夫は短く息を吐いた。
「こういうのって、物が落ちたから終わるんじゃないんだな」
その一言で、理沙はようやく、自分が外で済ませたはずのものを家の中まで運び込んでいたと知った。
「隠したつもりの夜ほど、朝には小さな証拠を置いていく。」

夫が寝室に入ったあと、理沙はリビングに一人で立っていた。
たかがライター一本。
そう思いかけて、すぐに違うとわかった。
壊したのはあの小物じゃない。あれは、もう壊れかけていた暮らしの上に、最後に落ちてきただけだ。
「何やってたんだろ……」
遊びのつもりだった。息抜きのつもりだった。家庭は家庭で守れると思っていた。だが、二つの顔を持てるほど、人の生活は器用じゃない。
理沙はテーブルの上のライターを見つめた。
消せないのは火じゃない。
一度持ち込んだ疑いのほうだった。
「火遊びは、消えてから焦げ跡を残す。」

やるべきだったのは、上手く隠すことじゃない。最初の一度で止まるか、夫との暮らしに不満があるなら外で埋めずに向き合うことだったってことさ。家庭の外で慰めを拾っても、最後は家の中の信頼から燃えていく。軽い気晴らしのつもりでもな、持ち帰るのはだいたい面倒な火種なんだ。
※この記事は、社会で起こりうる問題への注意喚起を目的として構成した創作です。特定の人物・団体・出来事を示すものではありません。

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