「悪い、今回だけ助けてくれないか」
典子は、その言葉を離婚してから何度も聞いていた。四十五歳。子どもは独立し、一人暮らし。元夫とはもう籍は抜けているのに、困るたびに連絡が来た。
「保証会社の審査が通らなくて」
「入院の付き添いだけ」
「役所の書類がわからない」
「お前しか頼れないんだよ」
典子は最初、情だと思っていた。長く連れ添った相手だし、完全に切るのは大人げない気もした。だから一度手伝い、二度目も手を貸した。
「これで最後ね」
そう言うたびに、次が来た。
人は、断らない相手を“優しい人”とは思わない。
“頼める人”として扱うだけだ。
その夜の電話も、元夫は疲れた声をしていた。
「ちょっと会えないか。話がある」
典子は嫌な予感を覚えながらも、結局は約束の店へ向かった。
「切れたはずの縁ほど、情を餌にして戻ってくる。」

「名前だけでいいんだ」
元夫はコーヒーを前にして言った。
「会社を立て直すのに口座が要る」
「俺の名義だと差し押さえが面倒でさ」
「お前の口座を一時的に使わせてくれればいい」
典子は顔を上げた。
「それ、まずいんじゃないの」
「大げさだな。金を預かるだけだよ」
「嫌よ」
「頼むよ。今までだって助けてくれただろ」
今までだって。
その言葉が、いちばん厄介だった。小さな頼みを断れずに積み上げた過去が、その場で典子の首を締めた。
「一回だけ。すぐ空にするから」
断るべきだった。
だが典子は、また“これで最後”を選んだ。
数週間後、口座は凍結された。
警察から連絡が来た時、典子はようやく知った。振り込まれていた金は、詐欺被害の金だった。
「私は知らなかったんです」
その言い訳は正しかった。だが、正しいだけで助かるほど、世の中は甘くなかった。
「小さく譲った線ってやつは、最後にいちばんまずい形で踏み越えられる。」

帰宅して、典子は通帳もカードも使えなくなった財布を机に置いた。
「なんで、あの時……」
元夫を信じたかったわけじゃない。
ただ、冷たい人間になりたくなかった。見捨てた女だと思われたくなかった。その程度の体裁で、自分の生活の境界を明け渡した。
離婚は終わりじゃなかった。
相手との距離を引き直さなかった時点で、ただ形だけ変えた関係が続いていただけだった。
典子はスマホを伏せた。
もう二度と鳴らなくていいと思った。
「情は、切るべき縁まで養う。」

やるべきだったのは、元夫の事情に付き合い続けることじゃない。
離婚した時点で、金と名義と生活の線をはっきり引くべきだったってことさ。
助けるにしても、口座や署名みたいな自分の土台は渡しちゃだめなんだよ。
終わった関係ってのはな、きれいに切らないと、最後は一番まずい所から持っていかれる。
※この記事は、社会で起こりうる問題への注意喚起を目的として構成した創作です。特定の人物・団体・出来事を示すものではありません。
