「今日も遅いんだよね?」
真理奈はスマホを耳に当てたまま、カーテンの隙間から外を見た。三十七歳。結婚して八年。夫は営業職で、帰りはたいていいつも遅かった。
『悪い、今日も終電かな』
「そっか。じゃあ先に寝るね」
通話が切れる。真理奈はしばらく画面を見てから、別の名前をタップした。
「来れる?」
相手は元彼だった。
『また?』
「大丈夫だから」
『旦那は?』
「遅いって」
最初は一度だけのつもりだった。懐かしかったし、少し話したかった。それだけだったはずなのに、気づけば“夫の帰りが遅い夜”が、別の意味を持つようになっていた。
「何回目だと思ってるの。平気だって」
真理奈はそう言って、リビングのクッションを整えた。夫のマグカップを棚の奥へしまい、テーブルの郵便物を束ねる。こういう手際だけは、妙に良くなっていた。
「隠しごとはな、慣れた頃がいちばん危ない。」

元彼が帰ったあと、真理奈はリビングで足を止めた。
「……え?」
ソファの横に、黒い片耳イヤホンが落ちていた。
「ちょっと待って」
すぐに電話をかける。
「イヤホン、置いてったでしょ!」
『そんな小さいの、気づかないだろ』
「気づくに決まってるでしょ!」
その瞬間、玄関の鍵が回った。
真理奈の背中が凍る。
「ただいま」
終電のはずの夫だった。
「なんで……」
「一本早いのに乗れた」
夫はネクタイを緩めながらリビングに入り、真理奈の視線の先を見た。
「何それ」
しゃがんで拾い上げる。小さな黒いイヤホン。たったそれだけの物なのに、部屋の空気は一気に変わった。
「誰の?」
「それ、前からあったやつで……」
「俺のじゃないな」
夫の声は低かった。怒鳴りもしない。そのぶん、言い訳の置き場がなかった。
夫の目が、テーブルの上の缶ビール、少し乱れたクッション、真理奈の顔を順に見た。
「誰が来てた」
真理奈は口を開いたが、どの言葉もイヤホンより軽かった。
夫はそれをテーブルに置き、静かに言った。
「こういうのは、落ちた物で壊れるんじゃない。落とすような暮らしで壊れるんだよ」
「綻びってやつは、小さい顔で家を裂きに来る。」

夫が寝室へ入ったあと、真理奈はリビングに立ち尽くしていた。
さっきまでのぬるい空気が、急にみすぼらしく見えた。開けかけの缶ビール。ずれたクッション。テーブルの上の片耳イヤホン。
「たかが、こんな物で……」
そう口にしてから、自分で違うとわかった。
壊したのはイヤホンじゃない。あれは、ただ最後に姿を見せただけだ。夫のいない夜を選んで、家の中に見せられないものを持ち込み続けた。その積み重ねが、ようやく床に落ちただけだった。
「私、何やってたんだろ……」
返事をする者はいない。あるのは、軽く見ていた夜のツケだけだった。
「油断は、静かに暮らしを壊す。」

やるべきだったのは、上手く隠すことじゃない。
元彼と切るか、夫との暮らしに不満があるなら先に向き合うか、そのどっちかだったってことさ。
二つの時間を都合よく回そうとすると、最後はどっちの居場所も失う。
隠し通す工夫より、壊れる前にやめる勇気のほうが、よほど安くつくんだ。
※この記事は、社会で起こりうる問題への注意喚起を目的として構成した創作です。特定の人物・団体・出来事を示すものではありません。
